ご挨拶
川崎合同法律事務所はこの50年間一貫して、市民の側に寄り添い、人権と社会正義を実現し、平和と民主主義を推進する活動を進めてきました。「50周年を祝う会」にかくも多くの方のご参加をいただけたのはその信頼の証だと自負しております。世代が変わろうとも川崎合同法律事務所の理念は変わりません。皆様からの激励を胸に、私たちは今後も、川崎の地に足をつけ、皆様のご期待、信頼にお応えできるよう、奮闘していく所存です。
2018年4月13日、川崎日航ホテルにて「川崎合同法律事務所創立50周年を祝う会」を開催いたしました。当日は、各弁護士が担当する事件の依頼者の方々、労働、公害、住民運動、憲法運動をともにたたかってきた方々、市内、県内はもとより遠方よりかけつけてくださった方、弁護士の仲間など450名を超えるご参加をいただき、盛況のうちに終わることができました。所員一同、心より感謝しております。
「川崎合同法律事務所創立50周年を祝う会」は、約1年前から実行委員会の皆様にご準備いただき、すべて手作りの会となりました。乱打夢の皆様による幕開け太鼓は壮大で、15分間のムービーでは1968年の創立当時から現在までの歩みを振り返りました。今はベテランとなった弁護士の昔の写真が映し出され、歓声が上がる一幕もありました。「50周年を祝う会」にあわせて記念誌も作成しましたが、普段とは一味違う弁護士の写真をお楽しみいただけたのではないでしょうか。
来賓の方々からは、過分なお褒めの言葉と激励の言葉をいただきました。事務所の存在意義をあらためて感じることができ、身が引き締まる思いです。
フィナーレの「民衆の歌」は、神奈川合唱団の方のお力添えのもと、会場一体となった大合唱となりました。――列に入れよ われらの味方に 砦の向こうに世界がある たたかえ それが自由への道――川崎合同らしいとお褒めをいただきました。
今後とも、当事務所をお引き立て下さるようよろしくお願いいたします。
川崎合同法律事務所所員一同
50周年の歩み
10年目(1968~1977)
川崎合同法律事務所誕生
1968年4月川崎合同法律事務所は生まれた。
創立時の所員は根本孔衛、本永寛昭弁護士と、事務局員妹尾芙美子さんの3人であった。それまで、根本と本永弁護士は第一法律事務所に、妹尾さんは東京合同法律事務所に所属していた。
事務所は、開設時より市議団や川崎民主商工会での法律相談で地域とのつながりを作り、その活動を拡げていった。労働者の権利を守る活動、労働者や市民を権力や資本からの弾圧から守る活動にも参加し、国民救援会川崎支部の設立にも参加した。こうして、川崎地域の権利擁護の中心事務所となっていった。
所得税法違反を口実とする弾圧事件であった「川崎民商事件」や臨時工に対する雇止めを争った「東芝柳町臨時工事件」など、開設当時から事務所が扱った事件は、最高裁判例の中でも、とりわけ重要な事件として現在も影響を与えている。
川崎から公害をなくすために
その結果、「川崎ゼンソク」と呼称される悲惨な公害被害がもたらされた。川崎は、「公害のまちかわさき」、「公害日本一」と言われる状況であった。 事務所は、1971年の青年法律家協会の大気汚染公害の実態調査を企画し、公害研究集会を成功させるなどし、公害患者の救済と公害根絶の活動を開始した。
1977年には篠原義仁が全国公害弁護団連絡会議の事務局長に就任し、全国各地を飛び回ることになった。
労働者のまち、川崎
川崎は労働者の街といわれ、開設当初から中小企業の労働事件が、その後日本ゼオン・東京衡機の配転解雇事件、小松製作所長期帰休、大企業での賃金差別などが発生し、いずれも裁判で救済が図られた。 当時から工場などで怪我をしたり、命を落としたりする労働災害が多く発生し、「カネといのちのコーカン会社」などと呼ばれる状況が続いた。その中で日本鋼管の渡辺労災・稲垣労災、三菱造船での長谷川労災が横浜地方裁判所で企業責任を追及する本格的な労災事件としてたたかわれ、当時、全国的観点から三大労災裁判と言われ、その後の労災裁判の途を切り拓いた。 事務所は、労働者の権利を守るため多くの企業とたたかった。中でも、日本を代表する大企業である東芝と日本鋼管とは長年にわたって数多くの事件でたたかった。「東芝柳町臨時工事件」では、今も非正規雇用問題につながる画期的な成果を得た。
多摩川水害訴訟
1974年9月、台風16号の襲来で川崎地域の農業・工業用水を取水する二カ領用水宿河原堰に起因して、東京都狛江市の多摩川左岸が決壊し、19棟29世帯の家屋が流出した。国家賠償請求訴訟では、事務所が事務局の役割を担い、一審での完全勝訴、1987年8月の高裁逆転敗訴。 1990年12月、最高裁で破棄差戻しの逆転判決を勝ち取り、圧死戻し新での東京高裁で勝利し、最終的に被災者の完全勝利を勝ち取った。
20年目(1978~1987)
川崎公害訴訟、提起
1982年3月、川崎の公害患者は、「きれいな空気と生きる権利」を求めて、企業14社と幹線道路の設置管理者(国と首都高)を被告とし、横浜地方裁判所川崎支部提訴した。その後4次まで追加提訴を行い、原告数は440名に達した。篠原義仁が弁護団事務局長に就任し、事務所はこの公害裁判の中心を担った。川崎公害訴訟は、損害賠償請求と差止め請求(大気汚染物質の環境基準値以上の排出規制)を二本柱としてたたかった。 1987年9月、公害健康被害補償法が改悪され、1988年3月、全国41大気汚染地域の公害指定地域が解除された。当時川崎には5000人を超える公害病認定患者がおり、毎月300人に及ぶ人々が認定申請していたが。政府はこれらの人々を無視し切り捨てる暴挙に出た。川崎の公害患者は、「いのちある限りの救済を」「いのちあるうちに救済を」求め、たたかいを繰り広げた。
思想信条差別とたたかう
これに激励されて全国各地で思想信条差別闘争が組織的に、大型訴訟として取り組まれ、関西電力、中部電力、東京電力の職場でも「人権裁判」の名の下に展開された。東電闘争では、19年のたたかいの結果、5地方の勝訴判決をテコに全面勝利和解を勝ち取った。電力闘争の中核は神奈川で、最大の原告団は川崎火力の職場であった。
1983年、池貝鉄工は労働組合の活動家38人を狙い撃ちに解雇を行った。全金池貝は、川崎の革新統一運動の中心で、革新市政誕生の原動力となっていた。事務所もこの闘争に加わり、神奈川地労委命令や横浜地裁の不当労働行為に基づく解雇無効判決を獲得した。 その他小松製作所、日産厚木、東燃石油化学、新日石化学、日本ゼオン、東京衡機など、大企業相手の思想信条差別闘争事件を多数担当した。
国鉄とのたたかい
1987年の国鉄分割民営化の中で、多くの労働者が機関士、電車運転士、検査係といった本来の勤務から外され、解雇されたり、清算事業団に行かされた。 しかし、国鉄労働組合は、「国民の国鉄」を取り戻すためにたたかい続けた。この中で「人材活用センター」という一日中日の当たらない詰所に25名を押し込み、まともな仕事を与えられないことに抗議した労働者が、公務執行妨害をデッチあげられ逮捕されるなどした(国労人活事件)。事務所は、これら裁判に勝利し国鉄労働者を支援し、職場復帰を勝ち取るなどして国鉄労働者とともにたたかい続けた。
30年目(1988~1997)
川崎公害訴訟、全面勝利解決
川崎公害訴訟(第1次)は、1994年1月、企業14社に賠償義務を認めさせる勝利判決を得た。判決日には2000名もの原告・支援者が裁判所前に結集した。即日、1500名を超える交渉団を組織して、加害企業、国、公団と交渉を持ち、早期解決を目指すという確認書を被告企業各社から取り付けた。
その後、判決をふまえた精力的な対企業行動の結果、1996年12月、提訴から14年9ヶ月を経て、被告企業から全面勝利解決を勝ち取った。解決式では、川崎日航ホテルで、全国の患者と支援者500余名が見守る中、東京電力、日本鋼管などの被告企業代表が深々と頭を下げて謝罪した。和解の骨子は、解決金の支払い、今後の公害防止対策と「環境再生とまちづくり」活動への協力の約束で、長年の取組みが結実した成だった。
その後、工場排煙だけでなく道路公害を無くさなければ真の解決はないとの問題意識から、国・公団との裁判闘争が続けられ、1998年8月に2次~4次訴訟で道路公害を断罪し、1999年5月に国・公団との間で全面勝利和解を勝ち取った。和解では、道路公害の根絶の約束とその実現を目指す、加害者と被害者が対策事業で議論する「道路連絡会」の設置を確認した。以降現在に至るまで年1回をめどに国交省関東地方整備局等との間で「道路連絡会」を開催し、公害根絶への取組みが続けられている。
市民生活に根差して
「税金の無駄遣いは許さない」を合言葉に、全国的に展開されている市民オンブズマン活動に連動して川崎にも1997年3月にかわさき市民オンブズマンが発足し、事務局が事務所に置かれた。 オンブズマンは、各種談合事件や土地開発公社が抱える「塩漬け土地」問題の追及を皮切りに、縦貫道汚職関連の私有地払下げ事件、南伊豆保養所用地買受差止事件、臨海部開発での税金の無駄遣いの象徴である「かわさき港コンテナターミナル」への優遇措置の撤廃の追及など、多岐にわたる取組みを展開した。 「かわさき港コンテナターミナル」は、川崎区東扇島に整備したコンテナターミナルを管理運営するために市が出資して設立されたが、貨物の取扱いが少ないことなどから業績が悪化していた。オンブズマンの追及は、同社を解散にまで追い込んだ。 行政の自浄作用が期待できない中で展開された、市民目線の活動であった。
事務所は、このような市民運動にも参加し、市政の民主化と財政の健全化を求める活動に積極的に協力した。
この頃、事務所は、弁護士が10名在籍、事務局員を含め所員数は20名に迫り、川崎市で一番大きな法律事務所に成長していた。その規模の拡大に合せ、1997年には現在の事務所があるソシオ砂子ビルへ引っ越した。
40年目(1998~2007)
平和と戦後補償
2001年9月11日、米同時多発テロが起き、アメリカは、テロに対する報復と称して、即座にアフガニスタン空爆を開始。日本もテロ特措法を制定し、海上自衛隊をインド洋に派兵。04年には武力攻撃事態法などの有事3法が成立し、2005年11月には自民党が9条2項の戦力不保持条項を削除し、自衛隊を自衛軍として明記する「新憲法草案」を発表するなど平和主義への攻撃が本格化した。 情勢が緊迫する中、全国各地で「九条の会」が結成され、神奈川でも、「九条かながわの会」「かわさき九条の会」、など300を超える会が結成された。
事務所は、「九条の会」に結集する市民と一緒に運動を展開した。同時に又は先だって、上瀬谷基地返還訴訟、米兵による強盗殺人事件について遺族が加害米兵、国に対して賠償を求めた事件(山崎事件等3件)や、原爆症認定集団訴訟などに参加した。
子どもたちの今と未来のために
戦後教育は、国家による教育統制により戦争へ向かっていったことに対する反省に立ち、日本国憲法の理想を実現する民主教育を実践しようとした。 しかし、平和主義が危機的状況となっていく中、戦争を可能とする国民意識の育成を目的として、この頃から再び教育現場への国家の統制と管理が強められていった。平和、自由、民主主義という日本国憲法の理念と反対の方向の力が強まり、1999年には「日の丸・君が代」が法制化され、2006年12月には第一次安倍内閣の下で教育基本法が改悪された。 事務所では、教育の本来の姿を取り戻し、子どもたちに平和で自由で民主的な世の中を残していくために、神奈川こころの自由裁判や東京日の丸君が代訴訟に象徴される、教育現場への不当支配とのたたかいや、市民による民主的教育・平和教育を求める運動をつなげるネットワーク作りに参画した。
差別事件の解決
この頃、事務所が手掛けてきた、東芝差別事件や東燃石油化学・新日本石油化学差別事件、国労人活事件を含む国労とJRの間の係争事件など企業内での差別事件が次々に解決を迎えた。 かつて川崎に本社を置いた東芝は、東芝に再就職した公安警察OBらをメンバーとする「扇会」を結成し、「思想的に問題あり」とみなした従業員の職場内外での活動を通報させた。
女性差別やサービス残業などの問題点を指摘し改善を求める自主的民主的な労働組合活動を進める労働者を監視し、職場で孤立させ、賃金差別、支配介入などを行った。1995年と03年に、労働者が差別是正を求めて神奈川地方労働委員会に救済申立てを行い(弁護団長岩村智文)、神奈川県地労委は「会社の施策に対立する独自の組合活動を行うものを嫌悪し、不利益な扱いをした」として賃金格差分を支払うように東芝に命じた。その後、中央労働委員会による是正命令を経て、2008年に和解が成立。申立人12人の処遇是正と解決金支払いだけでなく、退職者ら84人も和解の対象となった。
道路公害とのたたかい
川崎公害訴訟が終わっても、道路公害とのたたかいは続いた。高速横浜環状道路のたたかい、東京大気汚染公害訴訟のたたかいはその代表的なものであった。 1996年に自動車メーカー、国、都、首都高を被告として提起した東京大気汚染公害訴訟では、2007年8月に東京高裁で勝利和解を勝ち取った。
その内容は、自動車メーカーが被害者に解決金を支払う、国・首都高・都と自動車メーカーの負担で、都が都内在住の気管支ぜん息患者の治療費の自己負担分を全額補助する制度を創設する、幹線道路を中心に各種対策をとる、PM2.5の環境基準を検討するなどで、大きな成果であった。
50年目(2008~2018)
アスベスト(石綿)被害の根絶を目指して
アスベストは、耐熱性や吸音性、断熱性、耐摩耗性などに優れた天然の鉱物で、特に高度経済成長による建設ラッシュ期に大量に輸入され、内7割程度が建材として使用されてきた。肺ガンや中皮腫などを引き起こす発ガン性があることが公表され、現在では使用が禁止されている。 しかし、これまで、多くの建設労働者がその有害性を知らされぬ放置されたため、建設作業中に石綿含有建材を切断、研磨するなどして石綿粉じんに曝露し、結果、肺ガン、中皮腫、石綿肺などの重篤な疾病に罹患した。
2008年、東京、千葉、埼玉、神奈川の建設労働者が、石綿含有建材を製造販売した建材メーカー40数社と、石綿の製造を禁止してこなかった国の責任を追及して裁判を提起した。神奈川では、横浜地裁に提訴。神奈川訴訟の弁護団長に西村隆雄が就任するなど、事務所をあげての取組みである。昨年10月には、横浜地裁(2陣訴訟)、東京高裁(1陣訴訟)の各裁判所で国と建材メーカーの責任を認めるW判決を勝ち取った。判決をもとに、被害者救済基金による救済制度の創設など全面解決に向け、引き続き全力で取組み続ける。
非正規切りをゆるさない
2008年9月のリーマンショック後の不況を口実に数万人の非正規労働者が「雇用の調整弁」として切捨てられた。 いすゞ自動車、日産自動車、資生堂で行われた「非正規切り」に労働者が立ち上がり、それぞれ08年末以降、裁判所や労働委員会を舞台にたたかいを繰り広げ、所員は弁護団の一員として取り組んだ。
資生堂・アンフィニ事件は、2016年1月に非正規労働者もたたかえば勝てるという展望を示す全面勝利和解をし、いすゞ事件は、2016年11月に全面解決した。日産事件では、2018年2月、神奈川県労委で派遣先である日産自動車に使用者性を認める勝利命令が出された。 これらは、全労働者の4割以上の非正規化、格差の拡大・固定化にストップをかけるたたかいである。
脱原発を目指して。新たな公害とのたたかい
福島第一原発事故によって大量の放射性物質が拡散し、環境を汚染したことで、多くの人々が避難したり、被ばく防護措置をとったりと生活変化を余儀なくされた。所員も、福島に通い、約4000名の原告が、国と東電に対し、原状回復と損害賠償を求める訴訟に取組んでいる。2017年10月、福島地裁で、国と東電の法的責任を認め、水準、対象地域において中間指針を超える賠償を認める勝利判決を勝ち得た(1陣訴訟)。被害者の選別と分断を乗越え、金銭賠償の実現だけでなく、生活再建策や環境回復策、医療健康管理策などの具体的な制度化、そして脱原発社会を実現するという大きな目標に向け、舞台は仙台高裁へうつり、引き続きの取組みとなる。
脱原発の取組みは訴訟だけにとどまらず、所員が中心となり、「原発ゼロへのカウントダウンinかわさき」集会を企画、毎年1000人規模で開催したり、NPO法人を設立して「原発に頼らない世界を自ら作り出そう」とソーラーパネル発電所を設置するなど、市民とともに活動し続けている。
平和憲法をまもり、いかすたたかい
第2次安倍政権のもと、秘密保護法、安保法制、共謀罪と、戦争する国づくりのための法律が次々と強行成立した。2017年、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と明言され、憲法に自衛隊の存在を明記する条項を追加すると提起された。憲法学習会の講師活動、街頭での演説・署名活動にとどまらず、憲法をまもりたいという市民の声を国政にいかす候補者の擁立、支援を行う団体での活動など、平和憲法をまもり、いかすために、あらゆる角度、観点からのたたかいを、所員一同続けていく。