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高市首相 「馬車馬」発言について(弁護士 川岸卓哉)
2026年3月5日 木曜日
二〇二五年十月、 自民党の高市首相は 就任会見でこう述べた。
「もう全員に働いていただきます。 馬車馬のように働いていただきます。私 自身も『ワークライ フバランス』という 言葉を捨てます。働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります。」
この言葉が流行語大賞を受賞した裏で、過労死で家族を亡くした遺族たちは憤り、「命を軽んじている」「この言葉のために 私の家族は亡くなった」と訴えた。
この首相の言葉は、単なる個人の決意表明ではなく、 労働時間規制の緩和という明確な政策目理念に基づくものであったと考えざるを得ない。
首相はその後も国会答弁等において、現行の規制により「残業代が減り、生活費のために無理な副業をして健康を損ねる人が出るのを心配している」「企業が過剰に反応し、本来ならもう少し働けるのに乖離がある」などと述べ、緩和の必要性を説いている。
しかし、この論理は極めて欺瞞的である。労働者が生活のために残業を望まざるを得ない状況があるならば、 解決すべきは賃金水準の低さであり、労働時間の延長ではない。健康を守るための規制を、健康を理由に破壊するという論理矛盾は看過できない。
すでに、現行法の下でも三六協定を締結すれば、一か月百時間未満、年九百六十時間までの時間外労働が可能である これは実質的に「過労死ライン」すれすれを法が容認している状態だ。
長時間労働が健康を害する医学的・科学的知見は明快である。
週五十五時間ないし六十時間、 あるいは一日十一時間以上の長時間労働は、脳・心臓疾患の重大な健康阻害を引き起こす。一日五~七時間未満の睡眠では、脳心臓疾患などの過労死が発症するリスク領域にある。健康を確保するためには最低限七時間程度の睡眠が確保できていたかどうかが重要であり、日本人の生活実態を踏まえると、最低でも十二時間から十三時間の勤務間インターバルが必要となる。政権の考える規制緩和は、過労死を防ぐための科学的根拠を無視した暴挙なのは明らかである。
そもそも、日本社会には過労死を生み出すという構造的問題が根深く存在する。
使用者の指揮命令下で残業を命じられる立場にある労働者は自らの生命や健康を管理する主体性を奪われやすい。また、個の都合より組織を優先する会社本位主義や滅私奉公の精神 、そして人間を単なるコストと見なす市場原理が、私生活や睡眠までも成長の資源として消費し尽くしている。この過労死を生み出す前近代的な現実を無視して「労働者の選択」という美名のもとで規制を外すことは、極めて危うい論理である。
労働法は、過酷な労働環境に抗った先人たちが、団結して勝ち取ってきた闘いの歴史の結晶である。過労死弁護団や遺族たちが長年闘い、ようやく勝ち取ってきたのが、長時間労働規制帰省であり、「長時間労働は人の心身を壊す人災である」という法的・社会的な共通認識だ。首相の発言は、この歩みを否定し、前近代的な精神主義へと時計の針を巻き戻すものである。
文化の享受や創造の基盤となるのは、 個人の自由・自律性だ。一人の人間が自らのリ ズムを取り戻し、おかしいことには明確に「ノー」と言える知識と感性を研ぎ澄すこと。私たちが守るべきは、非人間的な規制緩和によって実現する企業の成長効率ではなく、一人の市民が自由な時間を謳歌し、文化に親しむ権利である。馬車馬の如き「使い捨て」を許さない 社会を創るのは、他ならぬ私たち一人ひとりの意志と行動である。
(この原稿は「ミュージック・マガジン」2026年2月号に寄稿したものです)
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